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2018年平成30年10月発刊
​著者 愛する会元会員 平沢忠明さん
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2024年5月没

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風越山物語 信州飯田市民が愛する名山
目次
風越山の優れた案内書 ―『風越山物語』の出版に寄せて―
山下守弘 風越山を愛する会会長(現在は、顧問)


第1部 文学の山 

第1章 城山三郎 小説「官僚たちの夏」で描く

第2章 西行        風越山の桜を詠む

第3章 藤原清輔 平安の都で歌枕として詠む

第4章 古歌         都人の歌心をそそった風越山

第5章 普江真澄 江戸後期の旅日記に描く

第6章 松尾多勢子 幕末の京都で古里の風越山を詠む

第7章太田水穂 来飯時の歓迎短歌会で詠む

第8章 土田耕平 療養中の飯田で風越山を眺めて詠む

第9章 吉川英治 娯楽時代小説『恋山彦』で虚空蔵山描く

第10章 日夏耿之介 山頂の大岩盤に墓碑銘としての句碑

第11章 野田宇太郎 日夏耿之介を師と仰ぎ、風越山に登った文学者

第12章 岡村二一 波乱万丈に生きた新聞人の古里回想詩

第13章 竹村浪の人 講談「お建伝説」で風越山を描く

第14章 村沢武夫 歌集「風越」で風越山を詠む

第15章 井口朝生 飯田城下を舞台にした小説で描く

第16章 山田風太郎「戦中派不戦日記」で描く

第17章 田中澄江 風越山に2回登り、描く



第2部信仰の山

第1章 石灯籠〈上〉登山道への寄進者はいかなる人物か

第2章 石灯籠〈下〉江戸時代の俳人とその子孫が寄進

第3章 ご神体 3祭神のうち2神は隻眼

第4章 扉絵  四神を含む6頭の神獣を描く

第5章 奥宮本殿 建立者は室町時代の地頭、坂西氏

第6章 平成の大修理 奥宮本殿、幣殿・拝殿など修復

第7章 丸山享保会 300年余続く森林共有権者の会

第8章 矢立木 神の領域と入会山の境界標木か

第9章 三十三所音 西国巡礼札所の本尊を模す

第10章 白山社里宮 神仏習合の歴史を今に伝える

第11章 遥拝所      山頂を望み手を合わせる場所

第12章 堀氏         歴代飯田城主が白山権現を崇敬

第13章 名号石     大岩盤に刻む巨大6文字

第14章 行者越  役行者が高下駄で踏破との伝説

第15章 岩戸家  神社を守る使命を代々継承

第16章 白山 風越山の白山神が勧請された霊峰

第17章 泰澄大師 女神に導かれ白山を開山

第18章 白山信仰 飯伊地方に多数の白山神社


第3部市民の山

第1章 山名「かざこしやま」が正式な呼名

第2章 木曽の風越山 木曽山脈挟み飯田と同名の山

第3章 風穴 後世に遺したい貴重な産業遺産

第4章 校歌 「丘の上」全校の歌詞に登場

第5章 奥の院 岩見重太郎の狒々退治伝説も

第6章 植物 風越山を代表する植物はベニマンサク

第7章 動物(哺乳類)野生動物とのせめぎ合いは昔から

第8章 登山マラソン 日本一の歴史を誇る大会

第9章 水       豪壮な滝と清冽な湧水

あとがき

風越山関係年表

おもな参考文献

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第1章 城山三郎

小説「官僚たちの夏」で描く

「風越山は、飯田市の西から北へかけて屏風のようにそそり立つ連山の総称である。

けわしい山と山とが重なり合い、肩を寄せ合って、足もとの伊那谷をのぞきこんでいる感じである」

「風越は、その山を見るのは、はじめてであったが、一目で気に入った。何となく、自分の兄弟分が山の形になって並んでいるような気がする。天まで背のびして、「おい、兄弟』と、山の肩をたたいてやりたい気分であった」

城山三郎の小説「官僚たちの夏』の一節である。主人公の風越信吾が夏の休暇に、家族旅行で東京から飯田を訪れ、自分の姓の由来となった風越山と対面する場面だ。

城山三郎(本名・杉浦英一)は昭和2年(1927) 8月18日、名古屋市生まれ。昭和

27年3月、東京商科大学(現一橋大学)卒。直木賞を受賞した「総会屋錦城」や、渋沢栄

ーを描いた『雄気堂々』、田中正造がモデルの「辛酸』、浜口雄幸と井上準之助を描く『男子の本懐』、広田弘毅の生涯をたどった『落日燃ゆ』などの伝記小説がある。

子の本懐」、広田弘毅の生涯をたどった『落日燃ゆ』などの伝記小説がある。

風越山物語

信州飯田市民が愛する名山

城山には昭和20年5月、海軍特別幹部練習生に17歳で志願し、敗戦までの3ヵ月間軍隊生活を送った経験から、『硫黄島に死す」『指揮官たちの特攻』など戦争のむごさを伝える作品もある。個人情報保護法や有事法制の制定を徹底的に批判するなどの活動から、気骨の人と呼ばれた。

「官僚たちの夏」は1960年代、高度経済成長期の通産省(現経済産業省)を舞台に、日本を主導する使命感に燃える官僚と政治家の確執などを生き生きと描いた小説。昭和49年(1974) 6月から12月まで「通産官僚たちの夏』と題して週刊朝日に連載され、翌年6月、これを改題し、新潮社から単行本として発行された。

中村敦夫や佐藤浩市の主演で、NHKの土曜ドラマやTBSの日曜劇場で放送されたの

城山三郎(朝日新聞社提供)

を記憶している人も多いだろう。

主人公の風越信吾は、通産省の事務次官を務め、在職中は「大臣など行きずりの雇われ」「地球は通産省を中心に回転している」と考える、"豪胆な異色官僚”

さばししげる

“ミスター・通産省”として名を馳せた佐橋滋(19

13ー1993)がモデルとされる。小説の中では、

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城山三郎が泊まった「三宜亭本館」と背後にそびえる

風越山

曽祖父が幕末に飯田藩領内を通過した水戸浪士軍の若き隊員で、和田峠での激戦で受けた傷の療養のため、風越山麓の庄屋の家にとどまり、傷がいえたあと庄屋の娘を連れて水戸に帰り、その後、分家して風越姓を名のるようになったーーという設定だ。

夏の終わりに短い休暇をとった風越は、妻、娘、息子を連れて飯田を訪れ、風越山を眺める。幕末、異郷にひとり取り残され、朝夕この山を仰ぎ、恋もした若い曽祖父の心境を思いやり、期待どおりの山容に感するのだ。

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城山は週刊朝日にこの小説の連載を始めた昭和49年6月13

、日、飯田文化会館で開かれた

文芸春秋・文化講演会(飯田青年会議所など主催)で講演のため、吉村昭、井上ひさしとともに来飯し、「魅力的な人間達」と題し、講演している。

この時、城山は「幻想の伊那谷』などの著書がある詩人・武田太郎の案内で、水戸浪士

軍の飯田通過の取材をしている。この取材が週刊朝日8月23日号で描いた主人公風越信吾

の出身へとつながっこうぎろう。

 

の出自へとつながったのだろう。

小説では、風越たちが泊まった宿について「宿は、天竜川を見下す断崖の上に在った」「はるか下の天竜川の川岸から、一筋の街道がまっすぐ上ってきて、宿のある崖に突き当るようにして谷側へ折れていた」と描写されている。

さんぎてい

これは飯田城跡の高台に建つ温泉旅館「天空の城三宜亭本館」(飯田市追手町2丁目)

のことである。同旅館関係者は「宿帳などは残っていませんが、当旅館の南アルプスを望む部屋にお泊りいただいたことは間違いありません。この当時に飯田を訪れた有名人はほとんど当旅館をご利用いただいておりました」と話す。

風越山物語 倉州飯田市民が愛する名山

城山は平成19年(2007) 3月22日、79歳で死去したが、筆者は生前、神奈川県茅ケ崎市に住んでいた城山に、「官僚たちの夏』に風越山を描いたいきさつを問う手紙を出した。

城山からは「風越という語感というか、言葉の響きの快さといったものに魅せられてのことではなかったかと思います」という返事をいただいた。

かざこしやま。風が吹き越していく山。飯田市民が古里のシンボルとして愛し、日々仰ぎ見るこの名山は、その名前の響きで、たまたま来飯した経済小説の第一人者といわれた作家の心を、静かにとらえていたのだった。

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第2章 西行

風越山の桜を詠む

平安時代末期から鎌倉時代にかけての歌人で、”漂白の歌僧””旅の歌法師”と呼ばれた西行が風越山の桜を詠んでいる。

「かざごしの嶺のつづきに咲く花はいつ盛ともなくや散るらん」

西行の詠歌を収める歌集『山家集』の「上巻春」にある歌である。『西行法師全歌集』(尾

山篤二郎校註、富山房)には「風越は信州飯田の西にある木曽の峰で名所」と注がある。

一方、『日本古典文学大系

山家集金塊和歌集』(風巻景次郎、小島吉雄校注、岩波

書店)には「風越ー信濃国伊那郡。飯田の西、木曽の一峰。歌枕。峰のつづきー風越よりさらに奥の降つづき。見る人もなく散った花をゆかしむ意」と記されている。

風越の奥の峰つづきに咲く桜は、いつ盛りともなく、見る人もないまま、散ったことだろうー/という歌意だろう。人々の愛でる里の桜より、俗から隔絶した山桜を愛した西行らしい歌である。

のりきよ

西行は元永元年(1118)生まれ。武士の子で佐藤義清(憲清とも)が俗名。鳥羽院

の北面武士だったが、23歳のとき突然、妻子や家来、官位を捨てて出家し、西行と号した。

出家の理由は、高貴な女性(野限院灘子)への許されぬ恋からとも、貴族・武士の社会で位階や権力を血を流して争う人間の愚かしさに空しさを感じて、歌と旅に生きる道を選んだ、とも言われている。

吉野や伊勢で草庵を結び、四国、九州、東国、奥州と全国の歌枕の場所や史跡、有名歌人の

墓などを訪ねて漂泊の果て、河内の国光弘川寺で文治6年(1190)、73歳で亡くなったとされる。西行71歳の時の『千載和歌集』には18首が入選し、没後15年を経て提集された『新古今和歌集』には、集中第一位の94首が選ばれている歌人である。

山家集には、阿智村園原の帚木伝説(遠くからは帚木のように見えながら、近づくと見えなくなる木があった)を詠んだ「會はざらんことをば知らで帯木の伏屋ときって尋ねきにけり」や、木曽の名所の「木曽懸橋」を詠んだ「波とみゆる雪をわけてぞ こぎ渡る きそのかけはし そこもみえねば」も載っている。

西行が実際に信濃を旅したか、については古くから研究者の間でも意見が分かれているところだが、和歌文学会編『論集西行』(笠間書院、平成2年刊)で、中世和歌を専門とした国文学者の滝澤貞夫信州大教授(当時)は、「西行は二度、濃へ足を踏み入れ、飯田も旅している」との見解を書いている。

西行が用いた倍濃の歌枕や、地名歌に見られる季節や心境の分析からの論考で、「かざごしの嶺」などを詠った晩冬から春にかけての旅と、「捨の月」などを詠じた秋の旅の二度という推察だ。

前者の旅は、東海道を下り、甲斐を経て諏訪に至り、伊那谷を天竜川に沿って南下、「か

ざごしの嶺」歌の風越山の地(飯田)から、帚木歌の地(園原)、さらに清内路峠を越えて木曽に入り、都に戻ったと推定。後者の旅は、陸奥の旅の帰途、上野国から碓氷峠を越え、千曲川に沿って下り、姨捨を訪れ、越後から北陸道を京都へと上ったとしている。

そして「西行は飽くまで旅での体験を基盤とし、その際の感動に直接向きあうことのできる稀な歌人であった」「その歌枕や地名は、机上の空想の所産などではなく、西行が実

際にその地に立っての写実を出発点とするものであった」と結論付けている。

『論集 西行』には、稲田利徳岡山大学教授(当時)も「西行は自らの足で著名な歌枕を実地体験し、かつ旅の体験を通じて多くの地名歌、歌枕歌を残している」という主旨の論文を掲載し、

西行の歌枕歌は西行自らその地を実地体験した作であり、歌

枕のイメージに頼った作はない、としている。

西行と同じく旅に生きた俳諧師、松尾芭蕉が西行を歌道の師と

仰ぎ、終生敬慕したように、遍歴生涯を送り、"世紀の大詩人”

とも呼ばれる西行は、今も多くの日本人の心をとらえて離さない。

「願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎ 望月の頃」の歌

でも知られ、生、桜を熱愛し、その美しさを詠み続けた西行が実際に、

一笠一杖の貧僧姿で、桜の季節にこの飯田を旅し、歌枕の風越山を

眺めている姿を思い描くのは心楽しいことである。

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第8章 登山マラソン 日本一の歴史を誇る大会

​陸上選手当時の田中秀雄氏(前列中央 田中敏秀氏提供)

「なんとすごい体力の人たちだろう。この山を駆け登り、駆け下りていくとは」。風越山で毎年10月に行われる融越登山マラソン。中でも花形の白山社コースに出場する選手たちのことである。

飯田市今宮町の市営今宮野球場をスタートし、風越山頂上付近の白山社奥宮(標高1460½2)で折り返す全長12・4Km。高低差が約920M、未舗装率80%という険しい登山道を走る過酷なレースだ。

多い年には百数十人が出場し、ほぼ全員が完走する。白山社奥宮までの登山所要時間の風越山物語 信州飯田市民が愛する名山

E』を定まての登山前要時間の

目安は登り2時間半、下り2時間だが、トップランナーは1時間数分でゴールインする。

風越登山マラソンは大正14年(1925)10月19日、地域の体育行事として初めて開催された。戦争での中断を経て、昭和23年(1948)

10月16日、現在の大会形式として、第1回大会が開催された。

その後、平成元年から6年間の中断があったが、再開を望む多くの声から平成7年に復活し、現在に受け継がれている。

平成30年が第64回大会だ。

高低差では富士登山競争(山梨県富士吉田市)の3000k、岩手山登山マラソン全国大会(岩手県西根町)の176011

などには及ばないが、これほど古くから続く登山マラソンはなく、日本一の歴史を誇る大会である。

白山社奥宮下の石段を駆け登り、駆け下りる選手たち

風越登山マラソンをめぐっては2人の人物のことを特記しなければならない。

IC TORY

下伊那郡青手會

孚屋動店

陸上選手当時の田中秀雄氏(前列中

央、田中敏秀氏提供)

一人は伊那谷が生んだ伝説の五輪選手で、虚空蔵山コース(全長8・7キロ)

の総合優勝者に贈られる「田中杯」に名前を遺す田中秀雄氏である。

田中氏は明治42年8月2日、下伊那郡阿智村智里で生まれた。田中氏と親しかった熊谷耕平氏(阿智村)、田中氏の長男田中敏秀氏(長野市)によると、

下伊那農学校(現長野県立下伊那農業高校)在学中の大正15年10月29日に行われた第2回

風越登山マラソンで優勝(1時間28分40秒)。進学した中央大学で箱根駅伝に4回出場、さらに各種大会の1500Hx1、3000kx、3000¾障害、1万など5種目で日本新記録を連発し、中長距離走で日本陸上界の第一人者と言われた。

同じ時に中央大学の陸上選手だった村社耕平氏とともに、昭和11年(1936)のベルリン五輪に出場した。田中氏は3000k障害と5000kに出場したが、直前の肉離れのため実力を発揮できず、予選落ちに泣いた。

田中氏は昭和23年の復活第1回風越登山マラソンで審判長、号砲を鳴らすスターターを

風越山物語 信州飯田市民が愛する名山

田中氏は昭和23年の復活第1回風越登山マラソンで審判長、号砲を鳴らすスターターを

務めており、本大会育ての親とも言われる。昭和24年、信濃毎日新聞社に運動部記者として入社し、昭和27年から始まった同社主催の長野県縦断駅伝競走の発案者としても知られる(第1回大会は飯田スタート、長野フィニッシュで行われ、下伊那郡チームが優勝した)。

同社で運動部次長、報道部次長を歴任して退社。平成10年2月23日、88歳で他界した。

もう一人は、平成21年の第55回大会白山社コース(総合優勝者には市長杯が贈られる)で10連覇を達成した秋田雅彦氏(飯田市)である。秋田氏は当時32歳、記録は1時間5分

47秒だった。

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指で10連覇の1と0の数字を示してゴールする秋田雅彦氏(平成21年)

秋田氏はゴール後「なんとしても10連覇を成し遂げたいという意地があった。

楽しかった。いいですね風越山は。自分を見守ってくれている、そんな存在」と

10連覇の喜びを新聞の取材に語っている。

秋田氏はその後、県内外からの山缶ランナーの参加などで優勝から遠のいたが、

10連覇は風越登山マラソン史上、燦然と

輝く記録である。

風越登山マラソンは飯田市、飯田市教委などの主催で「登山マラソンの部」、山麓の公園を周回する「みんなで走ろうの部」、団体で登山道を歩く「ウォーキングの部」の3部門17種目で実施される。毎年数百人が参加し、親子連れがお互いを励まし合いながら完走を目指すほほえましい光景も見られ、沿道で住民が声援を送る。

風越山を見て育った人々が古里の山への思いを胸に走る。地元住民や、飯田下伊那地方の高校7校の陸上班員ら約300人がボランティアスタッフとして、スタート・ゴール地点補助員、コース誘導員、登山道走路備員などに当たり、大会運営を支える。

風越登山マラソンは、風越山が市民の山であることを象徴する一大行事であり。

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